「台糖ファイザー」として、未知なる世界へ船出
ファイザー社の日本進出の第一歩となった「ファイザー田辺」の設立。そして、その意志を受け継ぎ、日本の医薬品業界に船出した「台糖ファイザー」。その誕生の物語をひもとくとともに、ファイザー株式会社の草創期ともいえる約10年の歩みを振り返ります。
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世界最大のペニシリンメーカーが日本の医薬品業界に進出
1950年代初頭、積極的に海外への事業拡張を進めていたファイザー社は、感染症治療薬を提供することで、日本の人々の健康にも寄与するという目的をもって日本への進出を計画。貿易商社に、特約代理店の候補となる日本企業の推挙を依頼していました。
一方、海外の有力な抗生物質製剤の輸入販売を計画し、海外情報を精力的に収集していたのが田辺製薬でした。同社は、ファイザー社の広域抗菌スペクトル抗生物質が最も有望な商品であり、日本の同業他社もこの製品に強い関心を示しているとの情報を入手。すぐさまこの貿易商社を介して、ファイザー社との接触をはかりました。
その結果、ファイザー社は1950年、日本での同剤およびその製剤の一手販売契約を田辺製薬との間に締結。
そうした流れの中で、同剤の日本での国内生産を目指したファイザー社は、田辺製薬との協力体制を一層強化し、共同出資(折半)によって新会社を設立。1953年8月、資本金1億円をもってファイザー田辺株式会社が誕生し、ファイザー社は日本における記念すべき第一歩を記しました。
当時は日本の経済の復興期にあたり、厚生省は医薬品の長期にわたっての輸入を認めず、国産化の技術援助契約締結後1年以内に生産に入ることが義務づけられていました。残念ながら、当時の田辺製薬は同剤国産化のための増資計画が実行できず、当局の条件を満たすことが不可能となったのです。
そこでファイザー社は、日本の提携先企業を新たに選択する必要に迫られました。
2社の夢と熱い思いが新会社となって結実
台糖社はもともと砂糖製造・販売の会社でした。戦後、砂糖の景気が低迷した際、新事業として始めたのがペニシリンの培養で、アルコール製造によって育まれた同社の発酵技術がそれを支えました。奇跡の新薬と言われていたペニシリンの国内生産は、戦後日本の薬業復興の重要課題とされ、国内企業約100社が取り組みましたが、醗酵技術に優れた数社のみが生産に成功。その中の1社が台糖社でした。
しかし、その後ペニシリンを生産する企業が急速に増えて競争が激化。ペニシリンの単一生産だけでは他社との優位性を保てないと判断した台糖社は、海外の優れた医薬品メーカーとの提携によって厳しい事態を打開しようと考えたのです。そうした状況の中で、舞い込んできた話がファイザー社との提携でした。
ファイザー社は、何社かの提携候補企業の中から、すぐれた技術力を持つ台糖社ともう1社に候補を絞り込みました。しかし、最終的には、医薬品事業に注ぐ熱意とパートナーシップを育むにふさわしい経営陣のマインドを高く評価し、台糖社を提携企業として選んだのです。
1955年、田辺製薬から台糖社への持株譲渡が行われ、ここに台糖ファイザー株式会社が誕生しました。
確かな技術だけを頼りにすべてゼロからのスタート
新たな船出をした台糖ファイザーは、まず生産体制の確立と販売網の整備に着手しました。
設立の翌年には、台糖の神戸工場の敷地内に培養工場を建設。田辺製薬の大阪製剤工場で技術を習得した社員たちにより、見事に広域抗菌スペクトル抗生物質の国産化を実現しました。
また、1956年には、ペニシリンや食品添加物などを除いて田辺製薬が一手に販売していたファイザー製品を台糖ファイザーが販売開始。それを受けて、東京、大阪、広島に事業所を開設しました。
一方、1957年には、動物薬、飼料添加剤の業務を開始しました。1960年、これまでの努力が少しづつ実り、業績安定の兆しを迎えたのです。また、この年には無菌製剤設備を神戸に完成させ、製剤面で全面的な国産化を実現。仙台と札幌に営業所を開設、さらに1961年に九州、1963年には高松、金沢、新潟と次々に販売拠点を設置するなど、販売力の基盤強化と販売網の整備を進めていきます。
ファイザー田辺として誕生してから約10年。生産体制の確立と販売網の整備によって、台糖ファイザーは日本の医薬品業界に確かな地歩を固めるとともに、次なる成長の扉を開いたのです。
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