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ファイザー株式会社 Working together for a healthier world より健康な世界の実現のために
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成長期2[1974-1982]

農畜産業界のリーディングカンパニーとして躍進
農産事業部の躍進/OTC分野への進出/生産体制の強化

ファイザー株式会社は、1970年代に入ると着実に業績を伸長。本社を新宿三井ビルに移転し、OTC分野に本格的に進出するなど、さらに新たなチャレンジを続けていきます。そうした中、医薬に次ぐ事業の柱である農産事業が大きな躍進を遂げます。

1974
(11月)本社を新宿三井ビルに移転。

1975
(6月)一般向医薬品分野(OTC)に本格進出。

1976
(10月)静岡県函南町に農産技術センター完成。

1980
台糖ファイザー・アカデーム(6月)武豊町に新研修施設「台糖ファイザー・アカデーム」完成。

1982
医薬メイト会を結成。

フェルデンが抗炎症剤として世界で売り上げ1位に。売り上げ10億ドルの大台に乗ったファイザー社初の製品。

驚異的な売上を記録した飼料添加剤「メカドックス」
-農産業事業部の躍進

台糖ファイザー設立当初の1957年に飼料添加物・動物薬市場に進出して以来、農産事業部は評価の高い製品を上市し、確実にマーケットの信頼を獲得してきました。

特に1970年代に入ると、抗菌性飼料添加物「メカドックス」が上市され、農産事業部は業界トップクラスに躍進します。

当時、全国的に豚の赤痢が流行し、その対策薬が切望されているなか、登場したのがメカドックス。赤痢に罹った子豚にメカドックス入りの餌を与えると、赤痢の特徴である血便が劇的に止まりました。国も業界も生産者もメカドックスの効果を認め、爆発的に売れるようになります。メカドックスが入っていないものは飼料ではないと言われたほどでした。

1999年、ファイザーの世界戦略によって飼料添加物事業が売却されるまで、メカドックスは農産事業部の売り上げを支えた中心的な製品でした。

農産事業の多角化と発揮されたリーダーシップ
-HN事業とファイザー・メイト会

ファイザー社は、農産部門グローバルでの積極的な新規事業を展開。HN社の育種事業(鷄)を買収し、日本でもHN事業を1974年からスタートしました。 1975年には、HN原種鷄農場をオープンし、種鷄ヒナの国内生産・販売を開始しました。さらに1976年には、静岡県函南町に農産技術センターを開設し、病気の診断・予防や飼料管理などの技術とノウハウをユーザーに提供しました。そうした技術や付加価値の高いサービスもまた、その後の農産事業部の躍進を支える要因となりました。1981年にHN事業は売却しましたが、その後も農産技術センターは鷄・豚を中心に、病気の診断や飼い方の指導、薬剤の開発を行うなど、確かな技術で営業部隊をサポート。生産者に高い信頼のあるサービスを提供しました。


農業技術センター

また、畜産マーケットの拡大に伴って激化する特約店の競合を防ぎ、特約店との協力関係強化と特約店各社の相互理解を深めるために、1974年、「ファイザー・メイト会」を発足させ、会員各社の相互理解と繁栄、ひいては畜産業界の発展に大きく寄与しました。

家庭での健康管理に欠かせない治療を
-CHC事業をスタート

1975年、医薬部門の新しい柱としてOTC営業部が設立され、一般向医薬品分野(OTC)へ進出しました。人口の老齢化、疾病構造の変化に伴う急激な医療需要と、これに対応しきれない医療供給体制とのギャップの中で、セルフメディケーションが重要な役割を果たすと考えたからです。東京、大阪、名古屋を拠点に17名のMRが、OTCのパイオニアとして薬局薬店にディテーリングを行う営業活動を展開しました。当時の逸話として、他社製品が9割のシェアを持っていた広域駆虫剤市場で、「コンバントリン」を発売した台糖ファイザーは、たちまち85%のシェアを確保することに成功しました。通常の薬局薬店に加えて、日本中の保健所や検査機関、学校薬剤師を訪問し、当時社会的な課題となっていた駆虫活動を積極的にサポートしたMRの革新的な営業活動の結果であったといえます。

時代の変化を捉えた積極的な先行投資
-名古屋工場生産設備の拡充

1970年代後半に入ると、台糖ファイザーの製造品目が広がりを見せ、名古屋工場では史上まれにみる建設ラッシュが続きました。1978年の第2製剤工場の倍増工事完了、1979年の物流センター建設、1980年の第3製剤工場、第4製剤工場、新合成工場の建設です。

第3製剤工場は、ペニシリン専用工場として建てられ、他の抗生物質製造からペニシリン製造を分離させるのが目的。このようなペニシリン専用工場の設置は日本でも先駆けとなるものでした。


第3製剤工場

第4製剤工場は、今までなかった凍結乾燥の製品への対応のために造られた工場で、凍結乾燥機を一挙に6基導入。これもまた、当時の業界では類を見ない大規模な投資でした。


第4製剤工場

また、名古屋工場内に建設された物流センターや新合成工場にも最新鋭設備が導入されました。特に、合成工場に産業用コンピュータを導入したのは、世界のファイザーでも初めての試みでした。


新合成工場

未来を見据えた積極的な設備投資と最新鋭機器の導入が、のちのファイザーの発展を支えることになります。

アカデームの完成とファイザー医薬メイト会の発足

この時代、台糖ファイザーは生産設備の増強や新事業へ進出する一方で、能力開発施設の建設や特約店との関係強化など、未来に目を向けたさまざまな取り組みを行っています。

その一つが、1975年度に創設された「アルピニスト・クラブ・メンバー」です。これは、特に優秀な成績を収めたMRに対して贈られる特別褒賞制度で、メンバーの証であるアルピニスト・クラブ・メンバー社章と副賞が贈られます。アルピニスト・クラブの名称は、高い山に登る人々のクラブという意味と併せて、箱根のアルパインハウスから採ったもの。ちなみに、第1回アルピニストに選ばれたのは14名でした。現在でもアルピニスト・クラブ・メンバーに入ることは、MRにとって一つのステータスであり、日々の仕事をするうえで大きな励みとなっています。

また、1980年には、武豊町に研修施設「台糖ファイザー・アカデーム」を建設。150名収容の研修室や33室の宿泊施設をもつ充実した設備の中、人材の教育と能力開発の場として大きな役割を果たしました。

一方、1982年には、特約店との相互理解と親睦を深め、さらなる関係強化を図るために、72社の特約店を会員とする「ファイザー医薬メイト会」を発足。講習会や研究会の開催、各種情報の交換や機関誌の発行などを通して、ファイザー製薬と特約店の良好な関係づくりを促すとともに、国民医療に大きく寄与しています。


アルピニスト・クラブ・メンバーに贈られるシルバーの社章。4回以上受賞すると、永久アルピニスト・クラブ・メンバーとなり、ゴールドの社章が。さらに、 10回以上の受賞者には、プラチナのアルピニスト社章が贈られる。

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