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ファイザー株式会社 Working together for a healthier world より健康な世界の実現のために
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草創期[1953-1964]

「台糖ファイザー」として、未知なる世界へ船出
台糖ファイザーの設立と経営基盤の確立

ファイザー社の日本進出の第一歩となった「ファイザー田辺」の設立。そして、その意志を受け継ぎ、日本の医薬品業界に船出した「台糖ファイザー」。この2 社の誕生の物語をひもとくとともに、ファイザー株式会社の草創期ともいえる約10年の歩みを振り返ります。

1953
(8月)ファイザー田辺株式会社設立。資本金1億円。田辺製薬社長 田邊五兵衛が取締役会長兼社長に就任。

1955
(6月)台糖ファイザー株式会社設立。資本金1億円。初代会長に台糖社の社長武智勝、社長に益田克信(写真)が就任。本社事務所を大阪市東区淡路町に開設。

1956
(7月)自社販売網を確立。東京、大阪、広島に営業所を設置。
(7月)テラマイシン培養工場(神戸)完成、初の国内一貫生産を開始。
(12月)本社を東京日本橋堀留町に移転。

1957
動物薬飼料添加剤業務の開始。

1960
無菌製剤工場(神戸)完成、全製剤の国産化完了。

米国コネチカット州グロトンに研究施設を開設し、研究部門への重点姿勢を示す。

1961
ファイザー社のめざましい発展期が始まる。マンハッタンのミッドタウン地区に本社を新設。

1965
益田克信社長が逝去し、会長に成瀬雄吾(写真左)、専務にピーター・W・コーエン(写真右)が就任。

世界最大のペニシリンメーカーが日本の医薬品業界に進出
-「ファイザー田辺」の設立

1950年代初頭、積極的に海外への事業拡張を進めていたファイザー社は、感染症治療薬を提供することで、日本の人々の健康にも寄与するという目的をもって日本への進出を計画。貿易商社に、特約代理店の候補となる日本企業の推挙を依頼していました。

一方、海外の有力な抗生物質製剤の輸入販売を計画し、海外情報を精力的に収集していたのが田辺製薬でした。同社は、ファイザー社のテラマイシンが最も有望な商品であり、日本の同業他社もこの製品に強い関心を示しているとの情報を入手。すぐさまこの貿易商社を介して、ファイザー社との接触をはかりました。

その結果、ファイザー社は1950年、日本でのテラマイシンおよびその製剤の一手販売契約を田辺製薬との間に締結。さらに1952年には、契約内容をテラマイシン含有飼料にまで拡大しました。

そうした流れの中で、テラマイシンの日本での国内生産を目指したファイザー社は、田辺製薬との協力体制を一層強化し、共同出資(折半)によって新会社を設立。1953年8月、資本金1億円をもってファイザー田辺株式会社が誕生し、ファイザー社は日本における記念すべき第一歩を記しました。

当時は日本の経済の復興期にあたり、厚生省は医薬品の長期にわたっての輸入を認めず、国産化の技術援助契約締結後1年以内に生産に入ることが義務づけられていました。不幸にして、当時の田辺製薬はテラマイシン国産化のための増資計画が実行できず、厚生省の条件を満たすことが不可能となったのです。

そこでファイザー社は、日本の提携先企業を新たに選択する必要に迫られました。

2社の夢と熱い思いが新会社となって結実
-「台糖ファイザー」の誕生

台糖社はもともと砂糖製造・販売の会社でした。戦後、砂糖の景気が低迷した際、新事業として始めたのがペニシリンの培養で、アルコール製造によって育まれた同社の発酵技術がそれを支えました。奇跡の新薬と言われていたペニシリンの国内生産は、戦後日本の薬業復興の重要課題とされ、国内企業約100社が取り組みましたが、醗酵技術に優れた数社のみが生産に成功。その中の1社が台糖社でした。


神戸工場の培養タンク

しかし、その後ペニシリンを生産する企業が急速に増えて競争が激化。ペニシリンの単一生産だけでは他社との優位性を保てないと判断した台糖社は、海外の優れた医薬品メーカーとの提携によって厳しい事態を打開しようと考えたのです。そうした状況の中で、舞い込んできた話がファイザー社との提携でした。


ファイザー社のマッキーン社長(左)が来日。
国産テラマイシンを説明する益田社長(1957年)

ファイザー社は、何社かの提携候補企業の中から、すぐれた技術力を持つ台糖社ともう1社に候補を絞り込みました。しかし、最終的には、医薬品事業に注ぐ熱意とパートナーシップを育むにふさわしい経営陣のマインドを高く評価し、台糖社を提携企業として選んだのです。

1955年、田辺製薬から台糖社への持株譲渡が行われ、ここに台糖ファイザー株式会社が誕生しました。


日本橋堀留町本社ビル(1956年)

確かな技術だけを頼りにすべてゼロからのスタート
-経営基盤の整備

新たな船出をした台糖ファイザーは、まず生産体制の確立と販売網の整備に着手しました。

設立の翌年には、台糖の神戸工場の敷地内にテラマイシン培養工場を建設。田辺製薬の大阪製剤工場で技術を習得した社員たちにより、見事にテラマイシンの国産化を実現しました。


当時、最大の機動力であったスクーターを
駆使した販売作戦を展開(1957年)

また、1956年には、ペニシリンや食品添加物などを除いて田辺製薬が一手に販売していたファイザー製品を台糖ファイザーが販売開始。それを受けて、東京、大阪、広島に事業所を開設し、台糖社からの移籍社員に加え、台糖ファイザー社初のプロパー要員となる7名を採用。正式な台糖ファイザー採用社員、第1 号となりました。

一方、1957年には、動物薬、飼料添加剤の業務を開始しました。1960年、これまでの努力が少しづつ実って収支が均衡し、当時日本を襲ったポリオ旋風から政府要請によるソーク・ワクチン緊急輸入なども手伝って、やっと業績安定の兆しを迎えたのです。また、この年には無菌製剤設備を神戸に完成させ、製剤面で全面的な国産化を実現。仙台と札幌に営業所を開設、さらに1961年に九州、1963年には高松、金沢、新潟と次々に販売拠点を設置するなど、販売力の基盤強化と販売網の整備を進めていきます。


卸での製品説明会

ファイザー田辺として誕生してから約10年。生産体制の確立と販売網の整備によって、台糖ファイザーは日本の医薬品業界に確かな地歩を固めるとともに、次なる成長の扉を開いたのです。


「ファイザーベンツ」を
全国の営業所に配車(1964年)

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